勝手にしやがれ 映画寸評

フランス人は五分を一秒というのね

男前な主人公、ミシェル。知的な女、パトリシア。この二人のパリ物語。
ささいなことで発砲し警官を殺害するミシェル。ときどき火星人だが顔もいいし背も高い。どこか生気に欠けるというか刹那的な影がある男だ。
知的で明るく、活動的なショートカットの髪と笑顔がキュートなパトリシアはアメリカからの留学生。ウーマンリブの先駆けみたいな女性です。

物語が進むほどミシェルのダメ男っぷりとパトリシアの悪女っぷりが際立ってくるのですが、ミシェルのパトリシアへのゾッコンぶりが半端ないことに気づき考えが変わりました。
1959年。フランス。主演、ジャン・ポール・ベルモンド。監督、ジャン・リュック・ゴダール。

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哀しみと無では無を選ぶね

未来のない男と夢を持った女。ミシェルのパトリシアにすがりつくような愛情表現に見覚えがありました。
子供が母親に向けるソレです。

母親にオモチャをねだる子供。手足をばたつかせ大声を出し、母親を引きとめようとする。無視して黙って行ってしまう母親に泣きつく子供。母親にすがりついて、お願い、お願いと連発する。自分の願いを聞き入れない母親を責めることはしても、母親から離れようとはしない子供。

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エロチシズムは愛の一形態

ミシェルのパトリシアに対するすべての行動は、母親にお願いをする子供の行為で説明がつきます。
母と子なら時には子供が要求を通すこともあるでしょうが、強い女と弱い男では始めから勝負になりません。男の完敗です。

映画でもミシェルはパトリシアにいろんな意味でフルボッコにされます。
それでもミシェルは逃亡を勧める友人にこう返すのです。

「それでもパトリシアのことが嫌いになれない。頭から離れられないんだ。彼女の側を離れるなんてできないよ(意訳)」
ミシェルの愛は、子供が親に向ける愛情に瓜二つです。

つまり俺はアホだ

昨今、子供の虐待が頻繁に報道されますが、当事者になってしまった子供の言動はまさにミシェルの言動そのもの。
パトリシアは呟きます。最低なんかじゃない。私は最低なんかじゃない。

映画のラストシーンのパトリシアの姿に、子供を虐待して死なせていしまった母親の姿を幻視しました。
女の愛情って、まさに劇薬ですね。

男の愛情の本質は『甘え』であり、女の愛情の本質は『自己愛』である。

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