終わりよければ…

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アニメ、じょしらくとソードアートオンラインについて

アニメ「じょしらく」の13話(一期最終話)とアニメ「ソードアートオンライン」の14話(原作一巻エピローグ部分)を見ました。
ともに区切りとなる回だったのですが、じょしらくとソードアートオンラインでは受けた印象が180度違ってました。じょしらくの方は好印象を、ソードアートオンラインの方は悪い印象が残ったのです。
なぜか? 細かく検証してみましょう。

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あとは二期が怖い

まずはじょしらく。13話の最後では今まで描かれることのなかった楽屋から高座へ向かうシーンが描写されました。マスクに呼び出され、楽屋から高座へ向かうマリーさんの表情。高座に上がったマリーさんの一連の所作。高座の袖からマリーさんを写したカメラレイアウト。
最終回にちなんだ「まくら」を始めるマリーさん。そでに控えたマスクが高座とそでを区切る扉をそっと閉める――。表情を引き締めるマリーさんはとても格好良かったですし、扉閉める→話を締めるという比喩も洒落が効いていると感じました。素直にいい終わりの形だったと思います。

キリトの戦いは続く…

一方のソードアート・オンライン。14話では原作一巻のエピローグ部分。主人公のキリトが目を覚ますとそこは見知らぬ天井。長い間ベットに横たわっていた体は筋肉が落ち、やせ細ってしまっていた。キリトは思い出す。アインクラットでの日々を。アスナのことを。アスナは今どうしているのか。ろくに動かない体を奮い立たせ、病室を出て病院の廊下を進むキリト。アスナに会いたい、ただそれだけを胸に秘め――。この病院のシーン、見ていて興ざめでした。なぜなら、キリト一人しか出てこないからです。

独りぼっちのキリト

ラストシーンの演出の狙いは、登場人物をキリト一人に絞ることでキリトの孤独な戦いが続くことを印象つけたかったものと思われます。が、本当にキリトは孤独だったのでしょうか。確かにソードアート・オンラインでは、ソロプレーヤーだったキリトは一人で戦うことが多かった。キリト本人が他人との関わりを避けていたこともあり、顔見知りも多くありません。

現実は非情ではない

では、現実ではキリトは孤独だったのでしょうか。家族、病院の医師、看護婦。病院には彼の命をつなぎ、彼の帰還を待ち望んでいた人がいたはず。アニメ14話のラストシーンはそのことを一切無視しているのです。この点が個人的に気に入りません。
驚く看護婦、駆けつける医師、体を動かそうとするキリトを制止する家族。そんな現実に目もくれず、ただアスナへの想いに突き動かされ、病室を出て行こうとするキリト。想いか交錯する分、こちらの方がリアリティがあると思いませんか?
非現実の仮想世界を扱ったこの物語はリアリティ(現実っぽさ)が非常に重要な要素なのです。病院のシーンには、そのリアリティが欠けている。

アニメ14話のキリトが一人で病院を力なく歩くシーンは、意図的な演出ではなくスケジュールの都合の産物と曲解されても仕方がないほど安直な演出だったと思います。

アニメ>マンガ>小説

僕はこのアニメを見るまでは、メディアとして比較した場合、アニメやマンガと比べて小説が劣っているのではないかという思いがありました。
文字と静止画・動画では、同じ時間で伝えられる情報量がケタ違いに差があるからです。キャラクターの絵一枚で伝えられることを、400字の文字にしなければならない小説。たった30秒のキャラクターの動きを、何ページにもわたって描写しなければいけない小説。差は歴然で、そこには超えることのできない壁が存在するのです。

しかしこのアニメを見て、小説が持っているメディアとしての長所に気がつきました。
小説は時間を自由に伸び縮みさせることができる。物語の「間」を自在に扱うことができるのです。時間を止めて長い解説を入れることが出きるのです。物語と読み手の時間を切り離すことができる。うーん、以前読んだ本で解説されて(物語のレッスン 土方洋一か、もしくはライティングデスクの向こう側 浅倉 卓弥だったか)いたんだけど、どう説明したらいいか、うまく説明できない。

とにかくアニメにできないことが小説ではできる。では、小説の長所を活かすにはどうしたらいいのか。……試行錯誤はまだ続きそうです。

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